難病患者のそこそこゆるい日常

恐怖ということ、生きるということ。

骨髄線維症は「生きられる」病気であると聞いているけれど、本当は「死ぬ」病気だそうです。

でも、「病気が進行すれば、完治出来るかもしれない方法がある」病気。

骨髄移植ってやつだそうです。

それで完治する。かも知れない。

 

いま、本当にほぼ普通に生活ができているので全然死にゆく実感がないんだけれど、ふとした事でじわじわと恐怖が襲ってくることがありまして。それがすごく厄介だなぁと。

 

それでも1日1秒と死に向かっているのは確実なわけで、それがただ同じ歳の子達よりもたぶん急激に速いというだけ。

その「だけ」の重みが、なかなかのもので。

 

ももしかすると、このまま老人になるまでうまいこと病気が進行しない可能性だってあるので、そこを期待しながら生きるしかないなぁと思っているのだけれど。

 

本当に、死にゆく間に何が出来るのだろうって、すごく思うようになりました。

たまに難病患者さんがコンサートしたり、って言うのがあるけれど、ああいうのが出来る方って本当に強い方なんだなぁって、今は凄くわかる。

 

でも「死ぬまでにやり残しのないように!」っていうの、気持ちは凄い分かるんだけれど、どれ位の速さで病気が進行するか分からないのでぶっちゃけ今のところ何にも出来ません(笑)めっちゃ長生き出来る可能性もあるので、いま貯金を使い切る訳には...!

ただ逆に言うと、1年もたない可能性だってあるので、そう思うと何にもしないのもな〜っていう微妙な葛藤が...。

 

生きるということについて、今すごく支えになっているのが、2番目にかかった先生の「今年の正月は病院やけど、来年もこの先もずっと家で正月迎えられるからな」っていう言葉と、姉の「あんたは私よりも1日以上長く生きる義務がある」っていう言葉。

あと、お友達からの「私達は絵描きでよかったね」っていう言葉も、なんか、凄く励まされた。うん。すごくよかった。

 

生きよう。

それがたぶん恩返しだ。